【ドラクエ映画 感想・ネタバレ】衝撃的なラストからどんなストーリーを描くか。
こんばんは。
あんにんです。
いろいろな意味で、いま話題の映画、
『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』を観にいってきました。
感想については一度noteにも書いているのですが、どうしてもまだ言いたいことがくすぶっていたので、改めて思うままに気持ちを綴っていきたいと思います。
この映画に関しては、賛否両論となることも理解していますし、その気持ちも(痛いほど)わかるつもりです。
私はゲームは知らないものの、ドラクエの漫画と共に育ってきたこともあり、
この映画に対する思いを、ドラクエとの想い出とともに綴っていきたいと思います。
「そんなわけないだろ!」と言いたい方もいると思うのですが、ひとつの意見としてお付き合いいただけたらうれしいです。
また、ここからはがっつりネタバレもしていくので、
「映画を見るまでは勘弁して!」という方は、
こちらのnoteの方へ足を運んでいただけたらと思います。
映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』がもたらしたのは”終わらないエンディング”だった
この映画をざっくりと表現すると「様々な感情が絡み合う映画」と改めて思うのですが、その複雑な気持ちのやり場に困っている方も多くいるのではないでしょうか。
衝撃のラストで話題が持ちきりですが、私なりにこの映画をどう受けっとたかを綴っていきます。
私にとっての「ドラクエ」とは
これは、私の幼少期まで遡る壮大な物語です。(笑)
まず、私は映画『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』の元になっている
「ドランゴクエストV 天空の花嫁」(以下、DQV)のプレーヤーではないので、
ゲームのシナリオや結末については知らない状態で映画を観ています。
ただ、私のなかで「ドラクエ」といえば、冒険スペクタクルの代名詞ともいえるものです。
幼いころ、ドラクエシリーズの「DRAGON QUEST -ダイの大冒険-」が大好きで、漫画も全巻持っていますし、ちょうど今くらいの夏休みシーズンには、3歳下の弟とテレビにかじりついて夢中でアニメを見あさっていました。
ゲームの世界とはまた別物かもしれませんが、少年漫画らしいアクションシーンやストーリー展開に心弾ませた日のことをよく覚えています。
ゲームも然り、漫画も然り、映画も然り、私たちがアドベンチャー作品に求めているのは、深い問いかけでも、目の覚めるような現実でもなく、
壮大な冒険のはじまりから終わりまでのストーリーを、主人公たちと一緒に辿っていくことだと思うのです。
ダイの大冒険で言えば、主人公の勇者・ダイが、師の志を受けて旅に繰り出し、
悪い大魔王をやっつけて世界が平和になった!と締めくくられます。
幼かったダイが、仲間たちとともに苦難を乗り越えながら成長していく姿、仲間との絆や家族愛などが描かれるなかで、ときには自分を主人公の姿に投影して、なんども立ち上がる姿に勇気をもらったものです。
記憶とともに蘇る冒険のはじまり
映画の予告編を観て、心が沸き立つ感覚を覚える人が多いのではないでしょうか。
誰しもが『ドラクエ』を思い出す「序曲のマーチ」はそのまま映画のなかにも使われていて、オーケストラが奏でる壮大な音楽が、昔の記憶を呼び覚ましてくれます。
ゲームプレイヤーでなくても知っている、ドラクエを代表する曲のひとつです。
さらに、本作は3DCGで描かれていて、キャラクターの表情も仕草も、まるで命を吹き込まれたかのように勢いよく動きまわり、目が離せません。
映画がはじまるとともに、映像と音楽が生みだす冒険の世界に、いつのまにか引き込まれていきます。
終わらなかった冒険
~はじまりがあれば、終わりがある~
冒険が終わってしまうのは切ないけれど、夢やロマンや爽快感が得たくて、同じ世界のなかでちゃんと結末を見届けようと、長い旅路をキャラクターたちと一緒に歩んできたのです。
もちろん冒険の終わり方にはそれぞれ好みや意見があるでしょうけど、大事なことは「冒険がはじまって、ちゃんと終わること」だと思います。
だからこそ、あのエンディングには正直言葉を失いました。
”終わらないエンディング”と題したのは、そこにあります。
衝撃のラスト15分
映画のクライマックスに差し掛かり、ラスト15分で繰り広げられたのは、誰もが期待していたであろうラスボス・ギルドラースとの壮絶なバトルシーンではありませんでした。
ラスボスに代わってでてきたのは、ドラクエらしからぬ白い仮面の自称・コンピュータ
ーウイルスという謎の人物(?)…。
そして、自称・ウイルスは「この世界は全てプログラムでできている」と言い放ちます。
(…ん??何が起こったの??)
状況がよくわからず呆然としていると、現実世界へとトリップし、なんと主人公のリュカがVR装置をつけて、ゲームの世界に入っていこうとするシーンです。
つまり、これまでのストーリーは、DQVのプレイヤーが観ていた仮想現実だったということなのです。
(……え??)
それでもまだ状況が掴めずにいると、今度はリュカのお供のスラリン(スライム)が、自分はアンチウイルスだと言い出したのです。
(!!??)
という衝撃の展開から、スラリン(アンチウイルス)の力を借りて、結果的にはウイルスを撃退して、仮想現実のなかでのエンディングを迎えます。
めでたし、めでたし…?
いや、…ちょっと待って!!
「えっ?ラスボスのギルドラースは?倒さないの!?」
私が言っているのは、あのウイルスのことではなくて、ドラクエの世界のラスボス・ギルドラースのことです。
ゲームを知らない私は、結局ギルドラースの姿を知らぬまま、エンディングを迎えることになってしまいました。
(まさかあの白いやつではないということは、さすがに理解できます。)
ドラクエのクライマックスは、ラスボスとのバトルですよね?
どんなにベタな展開だっていいし、王道のシナリオだっていいんです。
むしろ、冒険のクライマックスシーンさえきちんと描かれていたら、そのあとの展開が今の内容だったとしても受け止められた人も多い気がします。
ただ純粋に、ラスボス・ギルドラースとの手に汗握るラストバトルが観たかった…
私の心残りは、あの心弾んだ冒険が「終わりを迎えられなかったこと」なのです。
委ねられたエンディングこそが『ユア・ストーリー』
なんだか胸にぽっかり穴が開いたような、喪失感や切なさが残りながらも、アドベンチャーの最も大事な部分を削ってまで伝えたいメッセージは、しっかりと受け取りたいと思います!
(これはnoteに綴っています。)
とても短くて駆け足なストーリーだったけれど、私がリュカたちと歩んだ1時間30分ほどの時間は、決してウソではないのです。
急転直下のストーリー展開や多少の無茶な設定があったとしても、
パパスが倒れたときのやるせない気持ち
リュカがフローラかビアンカかどちらを選ぶのかを見守った複雑な想い
リュカとアルスが力をあわせてゲマを倒し安堵したこと
記憶に残るのは、やっぱりあの壮大なドラクエ音楽と、生き生きとしたキャラクターたちが躍動する姿でした。
主人公・リュカの言葉を借りるとするなら、「この世界は確かに存在した」のです。
現実では体感できない冒険の世界のなかで、幼い頃の冒険心をくすぐられながら過ごした時間は、私にとってはとても価値のあるものでした。
そういう意味では、あの映画はまだ未完成なのかもしれません。
この映画のタイトルは「ユア・ストーリー」です。
このエンディングをどうするのかは、私たちに委ねられたのだと思います。
ゲームを強制オフされた時のような絶望感や虚無感がありながらも、
それでも胸躍らせた時間が確かに存在したことは、私にとっては「現実」です。
これは、冒険心を忘れた大人たち向けの映画だと思います。
これから先、この映画のエンディングを自分で見つけにいくのです。
だから『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』なのだと、私は思います。
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